国際社会に大きな足跡を残した「鉄の女」が死去した。
揺るぎない信念を示して世界に多大な影響を与えたサッチャー元英首相。その死を悼む声が世界各地から相次いだ。
サッチャー氏は、英国だけでなく先進諸国の保守に新しい潮流をもたらした大政治家として長くその名をとどめるに違いない。
サッチャー氏が登場した1970年代末の英国は、「欧州の病人」と呼ばれるほどに、経済も政治も行き詰まっていた。最大の元凶は、「揺りかごから墓場まで」の手厚過ぎる社会保障制度と、それを支える「大きな政府」にあった。
万人が等しく医療を受けられる国家医療制度(NHS)に代表される社会保障制度は、労働党の方が主導した政策である。だが、保守党政権も、第二次大戦時の労働党との挙国一致体制下で生まれた社会保障政策のコンセンサスを曲がりなりにも踏襲してきた。
その「コンセンサス(総意)の政治」の打破を引っ提げ保守党の非主流派の中から一気に台頭したのがサッチャー氏であり、氏はいつしか、「コンビクション(信念)の政治家」と称されるようになった。
信念の核となったのが、「自らの足で立て」といった、自らの出身地イングランドの田舎町グランサムで培われたシンプルな徳目だったろう。「社会というものは存在しない」と言い放ったように、徹底して個人の力に重きを置いた。
氏は、経済は市場に任せるというフリードマン、ハイエクのレッセフェール(自由放任主義)的な考え方を援用して、高福祉で肥大化した政府を「小さな政府」に転換して減税を進め、規制を緩和し、労組を切り崩し、おカネと活力を民間に呼び戻した。
「英国病」から自国を曲がりなりにも立ち直らせたといえる。
こうした理念に共鳴したレーガン米大統領とは政治的盟友となり、コンビを組んで、まだ冷戦さなかにあった80年代の世界で、ともに西側の外交・安全保障政策の先頭に立ってきた。
自由と民主主義、反共産主義を高く掲げ、ソ連をはじめとする共産圏に対しては、国防を強化し、米国を盟主とする北大西洋条約機構(NATO)を重視し、万事に強腰で臨んだ。
89年のベルリンの壁崩壊に始まった、欧州を中心とする冷戦構造の終焉(しゅうえん)には、サッチャー氏らの強硬かつ持続的な反共外交が一役買ったともいっていい。
その「冷戦の闘士」が、翌90年に冷戦終結を宣言するためパリで開かれた国際会議の直後、保守党内の造反に遭って首相退陣に追い込まれたのは、その意味で極めて象徴的だった。
しかし、サッチャー氏が新しい息吹を吹き込み、体現した保守主義は、今も、「小さな政府」や「自由市場主義」といった哲学となって、欧米や日本などで影響を持ち続けている。氏が敷いた路線や政策は大なり小なり後のブレア労働党政権にも受け継がれた。
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